どうしたらマネジメントはうまくいくか3|お知らせ|オンダ国際特許事務所

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どうしたらマネジメントはうまくいくか3

(パテントメディア 2020年1月発行第117号より)
会長 弁理士 恩田博宣

1.はじめに

先日、NHKの番組で「今後1年間で後継者難、経営環境の悪化等により、中小企業がなんと31万社もなくなってしまう」という内容の報道がされていました。そのために失われる雇用も大きなものになります。
また、弁理士会機関誌「パテント」の2019年8月号には、国内特許出願件数上位30社の平成29年と30年の比較が掲載されていました。なんと30社中、出願件数を増やした企業は僅か5社、そのほかの25社はすべて出願件数を減らしていたのです。その減らし方も尋常ではありません。30%以上減らした企業が9社、最高に減らした会社は43%減でした。15~30%減らした企業が9社、15%未満が7社で、平均すると21%減でした。
増加させた企業5社のうち3社が遊技機メーカーで、そのうち2社は80%以上増やしていました。遊技機メーカーが生き残りをかけて、特許出願件数を大幅に伸ばしていることがうかがわれます。
いずれにしても、われわれ特許事務所業界にとって、非常に厳しい現実です。
このように特許事務所を取り巻く厳しい経営環境を乗り切るために頼りになるのが、京セラのフィロソフィ(経営理念)です。
本号においても、また、京セラフィロソフィを取り上げます。経営者としてそのマネジメントに対して、心すべきことが勉強できます。京セラフィロソフィを紹介し、筆者自身にも言い聞かせながら、そのフィロソフィと符合する筆者の経験を述べたいと思います。

2.京セラのフィロソフィ
2-1)潜在意識にまで透徹する強い持続した願望を持つ

京セラのフィロソフィでは、次のように説明されています。
「高い目標を達成するには、まず、『こうありたい』という強い、持続した願望を持つことが必要です。新製品を開発する、お客様から注文をいただく、生産の歩留まりや直行率を向上させるなど、どんな課題であっても、まず『何としてもやり遂げたい』という思いを心に強烈に描くのです。純粋で強い願望を、寝ても覚めても、繰り返し、繰り返し考え抜くことによって、それは潜在意識にまでしみとおっていきます。このような状態になったとき、日頃、頭で考えている自分とは別に、寝ているときでも潜在意識が働いて強烈な力を発揮し、その願望を実現する方向へ向かわせてくれるのです」

2-2)潜在意識の説明

また、「潜在意識」については、わかりやすく次のように説明されています。
「普段、我々が使っているのは、顕在意識というものです。自動車の運転を習い始めたころは、右手でハンドルをもって、左手でシフトレバーをドライブに入れて、アクセルペタルをゆっくり踏み込むというように教わったと思います。一通り教わってもなかなかうまくはいきません。『はい、もう一度やってみてください』といわれても、もう手と足がバラバラになってしまって、指導員に怒られてしまいます。思うようにいきません。これが顕在意識を使って運転している状態です。しかし、繰り返し練習をしていると、上達していきます。免許をとって何年も乗っていると、発進するときには、アクセルを踏み込むとか、信号だからブレーキを踏もうとかという意識はほとんどなく、自動的に手足が動きます。運転操作を特別に意識しなくても、周囲の状況を判断しながら、安全に運転を継続できます。これは顕在意識を使うことなく、潜在意識で運転しているからです。運転の繰り返しにより、潜在意識に運転が刷り込まれた状態になっているからです。
すなわち、我々が達成したい願望を、繰り返し繰り返し、強く持続して思い描くことにより、その思いは潜在意識に刷り込まれて定着し、取る行動や決断が自動的かつ無意識に願望達成の方向に向かうことになるのです。
潜在意識に願望が定着した状態になると、思いがけない瞬間にハッとひらめくことがあります。」
また、京セラフィロソフィでは、次のような話も紹介されています。
製造ラインに新たに人が配属されると、熟練してくるまでは、この部品をこっちへ持ってきて、こうしてねじを回して、というように顕在意識で仕事を覚えようとします。
ですから新入の工員の中には、仕事を始めて1か月くらいは「肩が凝る」「目が疲れる」といって、辞めていく者が出ます。ところが3か月もすると、急に楽になってきます。それも繰り返しの力によって、作業が刷り込まれ、潜在意識で仕事をするようになったことの効果なのです。
さらに、京セラのフィロソフィでは、「強く持続した願望は実現する」とも説明しています。
世界中の成功者が多く口にするのは、「心で思った通りになる」ということなのです。また仏教では「あなたの周辺に起こることは、全部あなたの心のままなのだ」と説いています。すなわち、「もし、あなたが今不幸な境遇にあり、会社においてうまくいかないとすれば、それはすべてあなたの想念、あなたの思いがそうさせているのだ」というのです。なかなか信じられないことですが、より良き人生のためには、信じて実行する以外にないでしょう。

3.筆者の潜在意識
3-1)潜在意識への道程

筆者は昭和36年(1961年)東京商船大学卒業後、船のエンジニアとして、当時の大阪商船に就職しました。最初に乗ったのは当時の最新鋭船で憧れのヨーロッパ航路でした。筆者は負けず嫌いで、出世意欲も旺盛でした。しかし、性格の悪さからでしょうか、上司との折り合いは常に悪く、仕事の上ではまじめに勤めても、成果が上がらず、どう見ても成績優秀とはいえませんでした。最優秀船から格の低い船へと転船させられる羽目となり、2年半務めたところで、船のエンジニアとしての出世はあきらめざるを得ませんでした。陸に職を求め、電力会社の子会社に就職したものの、状況は変わらず、設計業務担当から、現場監督へと回されました。やはり上司との折り合いの悪さが大きな原因でした。仕事上の成果も上がりませんでした。この頃、人との関わりのある仕事では成功できないと考えるようになりました。弁護士、税理士、公認会計士等の資格で商売をするのなら、人との問題は起きないだろうから、資格を取ろうと考えるようになったのです。
1年間をかけて弁理士の資格をとりました。そして、インターン2年半を経て昭和43年独立開業を果たしました。30歳でした。
大学で技術に関する学問を幅広く学ぶとともに、船という現場における経験を有する筆者は、当時の特許出願依頼のすべてに自信を持って対応できました。インターンで学んだ経験も有効に働きました。仕事は極めて順調にスタートしたのです。
しかし、問題が発生しました。雇い入れた職員との人間関係の軋轢でした。船と工事現場において、特に上司との間に起った折り合いの悪さが、今度は部下との間において発生したのです。人が社会的活動をしながら生きていく上で、人との関係なくして仕事を継続することはできないと悟りました。生きるということは人との関係を維持するということでもあるといえます。
特許事務所を発展させるためには、人との関係、部下との良好な関係を築き上げることがどうしても必要となったのです。

3-2)潜在意識への透徹その1(人格の向上)

なんとしても人との関係をよくしなければなりません。特許事務所開業後まもなくして、筆者は青年会議所に入会し、そこで、指導力委員会に所属し、SMIのプログラムに出会います。SMIはいわゆる自己啓発のプログラムであって、「人生成功の秘訣は目標設定にあり」を結論とするものです。具体的には、目標を立てたならば、その「目標を達成日限とともに紙に書いて貼れ」「目標達成した状態をビジュアル化せよ」「目標を達成した状況を積極的肯定的に宣言する文章(アファーメーション)を作って、声を出して毎日読め」としています。
この目標を紙に書いて貼り、ビジュアル化してそれを毎日見つめるとともに、アファーメーションを毎日読むというのは、目標を潜在意識下に刷り込んで定着させる有力な手段なのです。
サラリーマンとして、人との関係がうまくいかず、資格商売ならうまくいくと、転職には成功したものの、今度は従業員との人間関係がうまくいかなくなったのですから、もう筆者には後がありません。
人間関係を無視した人生はあり得ないことを悟った筆者は、このSMIを頼りに、人との関係改善を図ろうと決心し、情熱を燃やしました。
当時作ったアファーメーションは次のようなものだったと記憶しています。
「人との関係をよくすることなく、人生を送ることはできないと悟った。特許事務所発展の基礎は人間関係の良化向上にある。何としてもいい関係を築きあげよう」
SMIを学んだ筆者は、この文章を声に出して読むことが、願望の潜在意識への定着だと言い聞かせながら、具体的手段を探しました。偶然、解決策の糸口が見つかりました。筆者はコンサルタントの先生に「最近の若者は『おはようございます』のあいさつもできない」とこぼしたことがありました。若い女子事務員が朝、筆者の前を通って席に着くにもかかわらず、挨拶なしに席に着くのです。「なんて奴だ」と腹立たしい思いがつのります。勢いその事務員とはうまくいかなくなっていきます。そのことをこぼしたところ、コンサルタントの先生から「恩田さんの方から『おはよう』を言われてはどうですか」とアドバイスされました。「えっ!そんなのあり?」という思いでした。目下の者から挨拶するのが当然と思っていた筆者には、寝耳に水の考え方でした。
しかし、なんとしても人間関係をよくしていかなければならない筆者は、即実行しました。すると、たったの一回「おはよう」と筆者の方から声をかけただけで、彼女の方からも「おはようございます」と反応があったのです。ずっと面白くない感情が続いていたのが一瞬にして解決です。
筆者が変化することによって、相手も変わり、人間関係のこじれが解消する。劇的な体験でした。筆者の人間関係をよくする上での大きなヒントになりました。その後、勉強したAIA(心の冒険)というプログラムの中にも、同じ教えがありました。
すなわち、人とのトラブルを解消する道が3つある、というものです。
第1は「状況を変えましょう」という解決法です。近所に嫌な奴が居れば、引っ越しをしましょう。配偶者が気に入らなければ離婚をしましょう。職場が厳しければ転職をしましょう。という解決法です。確かに解決の1つの方法ではあるのですが、自分の持っている問題点はどこまでいってもついてきます。トラブルの原因が「盗人にも三分の理」、相手や職場ばかりが悪いとは限りません。自分の方に原因があるときは、引っ越しを、離婚を、転職を繰り返すことになります。どうも根本的な解決法ではないようです。
第2の解決法は、「その人を変えましょう」という解決方です。「あなた!部屋でたばこは吸わないでください」「食事中に新聞を読むのはダメです」「食事中はテレビを消してください」ということは、よくあることですし、言われた方も「それはそうだな」と従うことができるケースが多いでしょう。このように自分の思想信条と深く関わりのない事項については、相手を変えることによってトラブルを解決する方法は、うまくいくと思われます。しかし、「貴君の人生に向かい合う態度は傲慢すぎる。それではダメだ。もっと謙虚になれ」のように、たしなめられたようなときは、「一体私のどこが傲慢なのですか。いつも謙虚に、謙虚に振舞っています」と反論したくなります。自分が固く信ずる思想信条を否定されたとしても、おいそれと変わることができるものではありません。軋轢はますます激化してしまいます。第2の方法も、やはり根本的な解決法ではないようです。
第3の解決法は「自分が変わりましょう」という解決法です。筆者が自分の方から「おはよう」を言ってわだかまりが解消したやり方です。
その後、筆者はこのやり方を数多く実践してきましたが、解決に時間がかかる場合も、心の状態は非常に平穏です。「まだ自分の方が変わりきっていないからだなあ。もう少し努力しよう」という心の状態だからです。
少しずつ、人間関係はよくなっていきました。経営者の器以上にその企業は発展しないといいます。筆者の人生は終盤に差し掛かっていますが、まだ、事務所発展のためには変化が必要のようです。

3-3)潜在意識への透徹その2(ひらめき)

前述の京セラのフィロソフィの中に、「潜在意識に願望が定着した状態になると、思いがけない瞬間にハッとひらめくことがあります」という内容がありました。筆者にもその経験があります。特許事務所として、明細書の品質を上げ、短納期でお客様に届けるという願望は、それこそ寝ても覚めてもの強い継続したものでした。筆者の事務所の明細書のスタイルが定着するには、長い時間が必要でしたが、一つ一つのひらめきから決まっていったものです。
強い権利、無効になりにくい権利、書きやすい明細書、わかりやすい、読みやすい明細書、わかりやすい図面を求め続けた結果、潜在意識によりひらめいたものといえそうです。
具体的には次のような項目です。
①強い権利・・・請求項1は15行以内、請求項は5つ以上、発明の効果は簡明に
②無効になりにくい権利・・・別例、変形例を発明者提案の3倍以上箇条書きにする、拒絶対応を容易にするため実施形態の効果をできるだけ多く箇条書きにする
③書きやすい明細書・・・詳細な説明は構成と作用を区分けして記載する、実施例レベルの請求項は詳細な説明の末尾にその効果とともに記載する
④わかりやすい、読みやすい明細書・・・詳細な説明中には、原則全図にについて「図〇に示すように」を文頭に入れる、詳細な説明の文章は3行未満・・・「三行革命」といっています
⑤わかりやすい図面・・・3次元CADの利用により、斜視図を多用する

3-4)潜在意識への透徹その3(寝ても覚めても)

筆者の開業は自宅の4畳半でした。ありがたいことに仕事は順調に受注できました。自宅だけに歩く距離はほとんどありません。運動不足は相当なものでした。日曜日に外出し2キロも歩こうものなら疲れ果てるという状態でした。運動不足解消のために、当時盛んだったボーリングを始めました。しかし、10ゲーム投げても大した運動量にならないことがわかりました。時間がかかるので、渋々でしたが、ゴルフを始めました。友人の強い勧めがあったからです。始めてみるとゲーム性が高く面白いので、すぐのめり込んでしまいました。それ以来48年間、ゴルフと縁が切れたことはありません。昭和40年代半ば、ゴルフ人口は比較的多かったにもかかわらず、ゴルフ場が不足していたものですから、予約を取るのは大変でした。メンバーが月例杯の予約を取るのに、2週間前の予約日に現地に行く必要がありました。朝7時から現地予約開始というのに、午前0時には予約のために来場する車が並び始めるといった具合でした。そこまでしたくない。しかし、ゴルフはしたい。ジレンマでした。友人から「岐阜関CCの会員になれば、予約は簡単だ。予約なしで行ってもプレーできるよ」との情報を得ました。筆者はかなりの借金をして小さいながらも住宅兼事務所ビルを建てたばかりで、高額な会員権の購入など考えられない状況でした。しかし、「岐阜関CCの会員になりたい」という願望は日に日に強くなっていきました。毎日のように自分が岐阜関CCのフェアウエイをゴルフクラブをもって闊歩する夢を見るのです。それこそ寝ても覚めてもという状態になりました。その願望は完全に潜在意識に刷り込まれました。そして、さらに銀行を口説きました。非常に言いにくいところですが、足りない分を家内の父親にも頼み込みました。思い立ってからメンバーになるまでに、3か月はかかりませんでした。それからというもの実に楽しいゴルフライフを満喫できたのでした。ゴルフ場の理事も取締役も経験させてもらい、80歳を機にリタイヤしたところです。

3-5)潜在意識への透徹その4(外国出願の実現)

開業十数年、所員数も50名近くになっていました。大手企業からの出願依頼も多くなってきました。しかし、筆者の事務所で扱った日本出願の外国出願は、他の事務所へ回される状態でした。一流の事務所になるために、どうしても外国出願も筆者の事務所で受任したいという願望は強くなっていきました。当時、特許事務所でよく行われていた外国出願能力の取得手段は、優秀な実務者を米国特許事務所へ派遣し、2、3年勉強してもらい、帰国後外国実務に就かせるというやり方でした。しかし、米国滞在にはかなりの費用を要します。時間もかかります。そこで筆者は、コンサルタントの示唆もあって、米国特許弁護士を雇い入れる決断をしました。ワシントンにある事務所を訪ね歩き、派遣を要請しました。忙しいとの理由でどの事務所にも応じてもらえませんでした。どのように米国の特許弁護士を募集したらよいかわからぬまま年月だけが過ぎていきました。しかし、なんとかしなければというイライラするほどの情熱だけは続きました。筆者は米国の事務所を訪問するたびに懇願しました。筆者の事務所を訪問する弁護士にも頼みました。苦節10年、ワシントンの事務所のパートナー弁護士が筆者のあまりのしつこさに根負けしたのでしょうか。アイプラという雑誌に「日本にいい職場がある」という弁護士向けの求人広告を出してくれました。5人の応募があって、大変優秀な弁護士を採用できたのです。それから2年で、筆者の事務所の外国出願能力は飛躍的に上昇しました。大手企業の外国出願の依頼をぼつぼつ受任することができるようになったのです。持続して大きな願望を持つことの重要性がわかりました。

3-6)潜在意識への透徹その5(SEの採用)

昭和54年、日本はそろそろコンピュータを事業に使用する時代に突入していました。筆者はその重要性に注目し、事務処理の効率化を目指して東芝のシステム25を採用しました。お客様への発送書類の印刷は自動化されました。例えば拒絶理由通知をお客様へ発送するとき、出願番号のみを入力すれば、お客様の住所名称、発明の名称、通知文は自動印刷され、あとは拒絶理由通知の原本とともに穴あき封筒に入れるだけで発送ができるようになりました。しかし当時のコンピュータは記憶容量が小さく、出願経過は4つしか記憶できず、5つ目を入力すると1つ目は消えていくという具合でした。
同じお客様に2件以上の拒絶理由通知が同時に届くこともありました。そうすると、通知文は1件一葉で出力されるために、同じ封筒に「拝啓 貴社ますます・・・」のあいさつ文が複数枚同封されることになります。お客様からは「あいさつ文は1枚でいいのでは?」との声がかかります。「一葉のあいさつ文に複数の拒絶理由通知があったことを印刷できるようにしてください」と、ソフトウエアハウスに頼みます。しかし、それほど難しくないと思われるソフト改善もなかなかできてきません。50日もたってやっとできあがってきてもバグがあって動かない。さらに待たされてやっと正常に動くようになって、請求書を見てびっくり。当時の女子事務員の給与が約10万円なのに、25万円もの請求なのです。
筆者は所内に常駐するSEの必要性を痛感しました。しかし、当時、SEといえば引く手あまた。零細な特許事務所でSEの採用など夢のまた夢でした。しかし、次から次へと出てくるソフト改善要求もあって、筆者の願望は際限なく大きくなっていきました。SE探しがはじまりました。
かといって、破格の報酬を提案するほどの余裕はありません。拝み倒すようにして、SEのK君を採用できました。筆者の情熱が勝っていたといえそうです。それから数か月、明細書の何かを分かるために、1件書いてもらいました。法律研修も行い、会計の知識を得るために簿記も習ってもらいました。そして、前記と同じようなソフト改善を朝9時K君に頼みました。何と午前11時にはもう改善完了し、コンピュータは完璧に機能したのでした。筆者の潜在意識には、SEの重要性が完全に刷り込まれました。
現在でもSEの採用は困難を極めていますが、30年を経過し現在SEの数は10名を越えました。それでも事務所内から出てくるソフト改善要求の全てには応えられていません。
コンピュータの採用については、次のような話もありました。
コンピュータを採用して間もなく、能率化できたといささか自慢したい気持ちのときでした。大阪からある弁理士の訪問があったとき、自慢げに導入したコンピュータの話をしたところ、「なんぼ儲かりまっか」との質問がありました。能率が上がるとは思ったものの、いくら儲かっているのかは計算もしていませんでした。計算してみると事務員2人分の仕事をしているとは、いえませんでした。とすると、リース料を毎月30万円も払っているので、事務員2名を雇った方が勘定の上では断然得だったのです。愕然としたのを覚えています。しかし、コンピュータの使用をやめるわけにはいきません。引き続きコンピュータの使用を継続したところ、どうでしょう、5年たたないうちに、記憶容量は大きくなり、人手ではとてもやりきれない処理をコンピュータが大量処理するようになっていました。やはりコンピュータの採用は成功だったのです。

3-7)潜在意識への透徹その6(外内出願の獲得)

内外出願は米国弁護士の採用で比較的順調に推移していました。筆者の頭には一流の事務所といえるには、「外国からの出願も十分に扱える事務所にしなければ」という思いが開業数年後には頭をもたげ、次第に強くなっていきました。それにしては英会話に自信が持てませんでした。しかし、どうしても外内出願を獲得したいという思いは強くなるばかりでした。矢も楯もたまらず、通訳を連れてアメリカの特許事務所を訪問するという手段をとりました。頭の中では「会話もろく出来ない弁理士に仕事なんか出せるか」と、思われているのではないかという恐れがありました。しかし、旅から帰ってみると出願が届いていたことが何度かありました。多分「読解力さえあれば」と判断してくれていたのだと思います。潜在意識への透徹が外内出願をもたらしたケースでした。
筆者の事務所には、日本の大学を卒業後、ザルツブルグ大学を卒業したN君が特許明細書を書く補助者として働いていました。実力もかなりのレベルまで来ていました。彼は英語とドイツ語に堪能で、筆者はAPAAやAIPPIの大会に彼と出席するようになりました。大会では多くの外国特許事務所の弁理士とビジネス会談の機会を設けました。そのときのN君の働きは抜群でした。パーティのときに、これはという人を見つけると、じっくり話し合い、プライベートな食事に誘い仲良くなるというようにして、仕事をやり取りする特許事務所をいくつも開拓したのです。
訪問は米国、ヨーロッパのみならず、カナダ、中国、インドネシア、タイ、シンガポールにも及びました。当時少しはできていた外国クライアント企業の知的財産部を直接訪問することも、数は少ないながらありました。二人三脚は10年以上続いたと思います。
少しずつ外内出願も増えていきました。強い持続した願望のなせる業でした。まともに英会話ができないから、「英会話ができるようになってから外国営業をやろう」と思っていたら、多分成果はゼロだったに違いありません。

3-8)潜在意識への透徹その7(エイジシュート)

前述のように筆者は無類のゴルフ好きで、ゴルフが唯一の趣味といってもいいほどです。ゴルフ好きが高じて最近までゴルフ場の運営会社(やまがたGC美山コース)の社長まで務めていました。ここも80歳を機にリタイヤしたところです。
昭和46年にゴルフを始めましたので、48年のキャリアがあるわけです。だんだん上達し昭和56年にはハンディキャップ10になりました。そうするとなんとかシングルハンディキャップになりたいという願望が強くなってきます。なんとしてもシングルになりたい、いや絶対になるのだ、というように願望は大きくなっていきました。しかし、仕事をおろそかにすることはできません。ゴルフは原則休日のみ、練習場にはいかない、プレーの日には30分以上の練習時間をとるようにゴルフ場へ行く、という原則を守りました。昭和61年、めでたくシングルプレーヤーになりました。お祝いのコンペを大勢の知り合いを招いて行いました。
そうすると聞こえてくるのは、「本当のシングルは片手シングルだ」という話です。すなわち、「本当のシングルは、ハンディキャップ5以下なのだ」というのです。そこで筆者はゴルフの生涯目標をハンディキャップ5と決めました。それから7年、平成5年にハンディキャップ5を達成しました。翌平成6年には4まで上げることができました。
その後、胃がんを患い、ハンディキャップは徐々に下がっていきました。60歳を超えたあたりから、だんだん飛距離が落ちてきたのです。ゴルフプレーに対する感性も落ちパターが入らなくなっていきました。情けなく思った筆者は飛距離を落とさないために、筋トレを始めました。毎日、腹筋、背筋、側筋、腕立て伏せ、真向法、テレビ体操合わせて約30分行うようにしたのです。海外へ出たとき以外は、例外なく毎日毎日行いました。もう20年以上続いています。さらに、ゴルフのラウンドを終了し、風呂に入ったとき、バタ足を400回、足だけ平泳ぎを60回やるようにしました。
そうするとどうでしょう。筆者自身の感じ方ですが、肉体的には歳をとるのがゆっくりになります。精神面でも感性が衰えるペースがスローダウンします。飛距離の落ち方も少なくなってくるのです。80歳の今、ドライバーショットは平均180ヤードくらいの飛距離ですが、時には200ヤードを超えることもあります。先日、下りのコースでしたが、230ヤード飛ぶということもありました。
70歳を超えますとどこからともなく、エイジシュートという声が聞こえてきます。筆者もかなり意識するようになりました。歳をとるにしたがって、その思いはだんだん強くなっていきます。歳をとるにしたがって実現の可能性が高くなっていくからです。
70歳で前半34のスコアでラウンドして、「後半36でなら」と思った途端、45打も叩いてがっくりということもありました。
70歳代半ばになると、ラウンドごとにエイジシュートを意識してラウンドするようになります。75歳の5月、プライベートのコンペで75のスコアをマークし、第1回目のエイジシュートを達成しました。やはり、強く意識し、それを持続させた効果が効いているといえそうです。ますます筋トレにも力が入ります。たまたま筋トレができない日があろうものなら、罪の意識を感ずるほどです。さらに、79歳で2回目、80歳になった昨年は7月と9月には3,4回目をクラブ競技で達成しました。歳を取るにしたがってやりやすくなるように感じています。

3-9)潜在意識への透徹その8 (特許出願件数中部地区1番の特許事務所)

特許事務所開業前に、2年半大手特許事務所において、インターンをさせてもらうという幸運に恵まれました。そこでは、特許事務所を運営する上でのたくさんのノウハウを習得できました。特許明細書作成に関する基本的事項、特許関連紛争の進め方、発明相談の在り方等について、有用な知見を得ることができたのです。
特に特許請求の範囲の大きさについては、条文だけから、構成要件が少なければ少ないほど権利は広い、という概念を引き出すことは、実務に関する経験なしでは、しかも、独学で弁理士試験を突破した筆者にとっては至難の業でした。インターンの機会をいただけたことにより、しっかり習得できたのでした。感謝、感謝です。
開業と同時に筆者が目標としたのは、組織で仕事をする特許事務所です。特定の人材の優秀さによって、出願の依頼を受けるというのではなく、筆者の事務所に頼めば、誰が書こうが高品質の明細書が提供できる。そのような事務所を作ることでした。そして、大手企業から依頼を受けられるようになるとともに、出願件数で中部地区一番になることでした。この目標を達成するためには、当然ながら大規模事務所を作ることになります。
しかし、開業当時(昭和43年)は日本の高度経済成長期、従業員の確保、特に弁理士の採用は困難を極めました。女子事務員に「就業時間が始まってから化粧するのはいかん、うちでしてきて」と注意したら、「それなら辞めます」ということすらありました。工学部出身の人材採用など到底無理、法学部出身者に図面書きから教え、簡単な技術の明細書の書き方を教える、というやり方でした。しかし、少しできるようになったと思ったら、「家業を継がなければなりません」と退職。明細書補助者として、訓練を積んでかなりの腕になったところ、「弁理士試験の予備校がある東京の事務所へ行きます」といって去っていく。仕事は納期が守れず、依頼会社からは叱られる。全くやるせなく、泣きたい思いを何度も繰り返しました。まるで、神様が「お前は本当に組織で仕事をする特許事務所を目指しているのか」と疑いの目で、筆者を試しているかのごとくでした。
悔しく情けない思いをしながらも、目標を取り下げるわけにはいきません。また一からやり直しです。
開業数年たって、苦労していたところ、大手企業の知財部で働いていた優秀な人材M君を採用することができました。まるで、神様が「よーし、よく頑張った。ご褒美だ」といっているかのようでした。M君の書く明細書の下書きは完璧でした。筆者の事務所が大手企業から認められる大きな要因にもなったのです。
目標をはっきり意識し、その目標を潜在意識に刷り込むとともに、執念深くそれを追い続ける。挫折があろうと、「負けてたまるか」と、歯を食いしばってでも頑張る。あと戻りがあろうと、また第一歩から始める。逆に言うと、潜在意識に目標が刷り込まれていたから、「あきらめることなく頑張れた」ということもいえそうです。苦節十数年を過ぎるころには、出願件数は目標を達成していたのですが、全く気付いていませんでした。暫くたってわかったのですが、嬉しさはほとんどありませんでした。それは当然といえば当然なのです。潜在意識に刷り込まれた目標は、無意識の中では「達成して当然」だからなのです。

4.おわりに

筆者の潜在意識への透徹について述べました。いささか自慢話になってしまったことをお詫びします。しかし、目標を達成するについては、その目標を繰り返しの効果によって、潜在意識に定着させること、言葉を換えれば、潜在意識に刷り込むことの重要性はご理解いただけたのではないかと思います。