知財マンの心理学11 人生脚本3
(パテントメディア 2017年1月発行第108号より)
会長 弁理士 恩田博宣
1) はじめに
前々回から「人生脚本」を取り上げています。人の行動のパターンや思考パターンを支配する基本的ポジション(パテントメディア103号参照、当所HPでご覧いただけます)のほかに、同じように人の行動やものの考え方を規制する人生脚本があります。
基本的ポジションは生まれてから3歳くらいまでの間に主として、育ての親である母親との関係で形成されます。一方、「人生脚本」は3歳から14歳くらいまでの間に経験する心理的に強い印象を残す出来事によって形成されるといわれています。
前回、マイナスの人生脚本「人間不信」及び「親切にされても人を信じてはいけない」を取り上げました。人から好意を受けても、それを好意と受け止めることができず、どうしようもなく自分自身を最悪の人生へと落とし込んでいく登場人物Sさんの話でした。マイナスの人生脚本の怖い一面でした。
2)人生脚本にはどんなものが
前回までにいくつか例示した人生脚本を復習のため、以下に掲載します。
「禁止令といわれるもの」
- 存在してはいけない
- 所属してはいけない
- 成長してはいけない
- 感じてはいけない
- 成功してはいけない
- 重要であってはいけない
- 健康であってはいけない
- 楽しんではいけない
- 幸福になってはいけない
「ドライバーといわれるもの」
- 急げ
- 完璧であれ
「人生にプラスの影響を与える脚本」
- 九死に一生
- 人間信頼
- 豪放磊落
- 世のため人のため
- 滅私奉公
- 素直に
3)Jさんの話
パテントメディア106号において、勝海舟の人生脚本(人間信頼、九死に一生)について、記載しました。勝海舟は自分を斬りに来た坂本竜馬を説き伏せ弟子にしたり、江戸城を無血開城する立役者となったりしました。
本号においては、同じくプラスの脚本(豪放磊落、人間信頼、九死に一生、滅私奉公)を持つ、実在の人物Jさんについて述べます。実に勝海舟の脚本とよく似ているのです。
Jさんはもう20年も前に亡くなられています。
Jさんは約90年前に裕福な地主の家の子として生まれ、成績優秀で鉄道学校、そして、海軍機関学校へと進み海軍軍人になられた人です。
両親について
お母さんは大変なしっかり者で、Jさんをきちっと育てられました。Jさんに大きな愛情を注がれるとともに、相当厳しくもあったようです。Jさんが海軍に入り中尉になった頃の話だと思われるのですが、お母さんは時々慰問に来られたのだそうです。大きな荷物を背負い両手に持ちきれぬほど慰問の品をもって来られました。それがほとんどJさんの仲間や部下に食べさせる食料だったというのです。お母さんの慰問を仲間が大変楽しみにしていたそうです。
こんなところからもお母さんがJさんをどのように育てたかを、垣間見ることができます。Jさんを温かく見守り、我が子も他人の子も是々非々で分け隔てなく扱うタイプのように見受けられます。我が子だからといって甘やかしたり、えこひいきしたりするようなことは決してなかったと思われます。
お父さんは豪放磊落そのものの人であったようです。Jさんは出入りする料亭の女将から50銭もする特大の飴細工を買ってもらった記憶があるといいます。当時普通の飴細工は5銭だったそうです。お父さんの指示があったに違いありません。
あるときお父さんは「ちょっと銭湯へ行ってくる」といって、手拭一本で出かけたまま5日間帰らなかったこともあるそうです。さらに、Jさんの家が火事になったときのことです。ちょうど料亭にいて、その知らせを受けたお父さんは「帰ったって燃えるものは燃える」と席を一番見晴らしのよい階上の部屋に移し、火事を見ながら一杯やったといいます。並みの豪放磊落さではありません。
父親、母親ゆずり
筆者はJさんの会社から多くの特許出願をご依頼いただいたり、ゴルフのお付き合いがあったりで、大変親しくお付き合いいただいていました。そのお付き合いの中で、いつもJさんの人柄には打たれるものがありました。いつもそばにいたいという感じだったのです。
時々洩らされる海軍時代の話は、いずれも部下や同僚に対する愛情に支えられたヒューマニズムにあふれる話ばかりなのです。
そのいくつかについて話したいと思います。筆者は正確に詳しい話を聞きたくて、取材をお願いしたのですが、どうしてもOKが出ませんでした。後程説明しますが、仲間がみな戦死したのに、自分だけが生き延びたことへの贖罪意識がそれをさせていたと思われます。従って、宴会等の席でJさんが話されたことの僅かな記憶から書きますので、正確である保証はありません。
部下に対する思いやり その1
戦艦だと何千人も乗り組んでいて、半舷上陸(艦船が停泊した際、乗組員の半数を当直として残し、半数ずつ交代で上陸させること)といっても多数の水兵が上陸します。厳しい日本海軍であっても、何人かは遅刻するのだそうです。すると、営倉(懲罰房)等の厳罰が待っています。Jさんは海軍機関学校をトップで卒業して、恩賜の時計をもらっていました。これを何分か遅らせておいて、遅刻者が帰って舷門で当直士官につかまっているのを「恩賜の時計が狂っているというのか」と一喝。何回も救ってやったことがあるとおっしゃっていました。当時はまさか恩賜の時計にいちゃもんはつけられなかったのでしょう。Jさんの部下に対する愛情がにじみ出ていますが、これはお母さんの影響であると思われます。
豪放磊落 その1
Jさんの父親ゆずりを見るのに興味深いエピソードがあります。当時どのような軍艦に乗っておられたかは不明ですが、呉に寄港中2日間の休暇で岐阜へ帰省したときのことです。風雲急を告げる太平洋戦争がどうなるかわからないということで、周囲の人の思いやりだと思うのですが、その後長年連れ添われた奥様との結婚式が行われました。筆者が奥様にお会いしたのは、中年をすぎてからでしたが、それはそれは美しい方でした。
今日結婚式で明朝には岐阜駅を出発しなければ、門限に間に合いません。そして、次はいつ帰れるかわからないし、帰ることができないかもしれないのです。明朝までの時間は、とても大事なはずです。
自宅で簡単に結婚式を挙げたのですが、悪い友人がいて、挙式後「飲みに行こう」と誘われ、Jさんは家を出てしまったのです。
そして一晩中飲み明かし、早朝玄関で正座して待っておられた奥様に、「行ってくる」とだけ声をかけ、呉へ帰任されたのです。奥様の気持ちたるや察するに余りあります。当時の男気というものは、これほどのものだったのでしょうか。
終戦後、海上自衛隊からJさんに、指導教官にとの誘いがあったのですが、Jさんが読んでおられるその封書を、奥様はつっと取り上げ、破り捨てられたそうです。奥様の気持ちはよくわかります。
さらに、この事件には余話があります。Jさんが軍服のままカフェで友人と飲んでいると、見回りの憲兵が来ました。その憲兵はJさんが海軍大尉であることを見誤ったのです。憲兵はあろうことか、「なぜ敬礼をせぬか」とJさんに迫り胸ぐらをつかみあげました。Jさんは「何を言っているか」とばかりに、相手のサーベルを抜き取り、それを首根っこにあてがい、「敬礼すべきは、貴様の方ではないか」とやり返したのです。多少のけがもあったそうです。
参考ですが、当時大尉といえば軍人としてはたいへん上の位でした。筆者の叔父が入隊し2等兵だった頃、慰問に行ったことがあります。そのとき伍長の位の人にまず挨拶をしたのですが、小学生の筆者にはとてつもなく偉い人に見えたのですから、当時の筆者からすれば、大尉は神様ほどの偉さだったといえそうです。
さて、件の憲兵は自分の非をJさんに詫び、話すうちに意気投合し、「今晩は私にお任せを!」ということになりました。その後夜が明けるまで、Jさんは岐阜中を引っ張り回されたそうです。勝海舟が坂本竜馬を弟子にしてしまった話と二重写しになります。
Jさんは亡くなられる直前まで、背筋はピンとして、お辞儀は両方の手をピタッと腰にあてがい、直立不動で上体をまっすぐのまま60度に傾けられました。海軍時代の名残りだと思います。ゴルフのハンディキャップも10の腕前でした。70歳をとっくに超えておられたにもかかわらず、実によく飛ぶのです。480ヤードロングホール、第2打5番アイアンでグリーンオーバーということもありました。海軍時代の鍛え方が並み大抵なものではなかったことが偲ばれます。
部下に対する思いやり その2
Jさんのお母さんゆずりだと思われるエピソードもあります。
Jさんは指揮官の立場で、南洋で作戦を展開中の陸軍の撤収を命ぜられたことがありました。軍艦でその島に無事着いたのですが、当時、すでに制空権は米側に移り、戦闘で敗色濃い日本陸軍には、長期にわたり食料の補給もなく、疲れ切った生き残りの兵隊がどんどん撤退して来るのだそうです。その撤退兵は五月雨的にいつまでも続きました。午前3時までに出航しないと夜明けまでに米空軍の制空域を脱することができないにもかかわらず、Jさんは1時間以上も出航を延長し、撤退して来る兵隊を収容したのです。
万一、米軍の餌食になっていたら、Jさんの好意は無になってしまったのですが、無事米軍の制空域を脱し得たそうです。お母さんの影響がうかがわれるヒューマニズムの一端だと思います。また、九死に一生の脚本が活かされた一例かもしれません。
贖罪意識
以下の3つの話は、Jさんが「俺だけ生きていてすまぬ」という戦友に対する贖罪意識に関するものです。
Jさんは特殊潜航艇の話をされたことがありました。いわゆる人間魚雷です。太平洋戦争では戦闘機で米軍艦に体当たりする特攻隊の話が有名ですが、海軍にも特攻兵器がありました。
艦艇で他の乗組員と全く変わらぬ働きをし、日常生活を送っていた水兵が艦長の「特殊潜航艇発射用意」の号令が発せられるや、「顔色一つ変えず、まるですぐにでも帰るという雰囲気で出撃していくのですよ」とおっしゃっていました。
そのほかにも、航空母艦時代の話として、次のような話がありました。出撃していく戦闘機が帰艦しないことがあります。そのパイロットの食堂の席には、必ずすべての食事が用意されるのだそうです。そして、未帰還の人のことは誰も何も語らず、黙々と食事をするのだそうです。その次の食事からその人の席はなくなります。
艦船が敵機の攻撃を受けて乗員が負傷して亡くなることはしょっちゅうありました。ある時、Jさんが負傷した部下に駆け寄り、抱き起すととても助かりそうにない重症でした。「何か望みはないか」と訊くと、「たばこを一服」というので、たばこに火をつけて差し出すとうまそうに吸ったのですが、なんと背中から煙が立ち上ったのだそうです。
いずれの話の時もJさんは、戦友に対する「すまぬ」という雰囲気を体中で表されるのです。筆者は基地名だとか、時期だとか、人数だとか、艦長名だとか、階級だとかを正確に知ろうと、何回も取材を試みたのですが、頑として教えてもらえませんでした。そこにも戦友に対する贖罪意識が働いていたと思います。
Jさんは時として、ヘビースモーカーであることがありました。全くやめられることもありました。お酒は大丈夫かなと思われるほど飲まれました。長生きしてほしい周囲の人が勇気を出して「ちょっとすぎるのでは?」と忠告することがありました。その時の答えは決まって冗談っぽく、また明るく、「早く死んでしまいたいよ」でした。ここにも「早く戦友の所へ行きたい」という心情を見ることができたのでした。
九死に一生 その1
次のような話もありました。
巡洋艦に乗船中に、海戦で敵機にやられて沈没し、南洋の30メートルの海底に沈められたことがありました。そのとき機関部の中枢にあったJさんは二十代半ばでしたが、死を覚悟されたそうです。そして、「今までの俺の人生はどうだったか」と自問されたとき、「ああ、俺の人生は素晴らしかった。悔いなし」と思われたというのです。
筆者は14年前、胃がんを宣告されたとき、「今、死ぬのは嫌だ。まだやり残したことがいっぱいある。もう少し生きたい」と未練がましく思ったものです。Jさんの潔さにはとても及びもつきません。
そして、階級の下の者から順に退艦しました。艦長が最後ですが、Jさんは最後から2番目だったそうです。
それから南洋の海の波間に揺れること26時間、味方の駆逐艦に助けられました。その26時間の間に、800名いた退艦者のうち、助けられたのは三百数十名だったそうです。多くの隊員は、ある者は米軍艦載機の機銃掃射にやられ、ある者は疲れ切って波間に消え、もっとも凄惨なのはフカの餌食になった隊員もあったのです。
波間で揺られながらJさんは考えました。「ここで死ぬのは一番やさしいことだ。ただ潜ればいいのだから。命が惜しいとは思わない。けど、できることなら、もう一度人のために尽くしたい。もう一度新しい船に乗って国のために役立ちたい」ということだったそうです。そして、もうあとひとかき、もうひとかき、と思い手足を動かしたそうです。もし、米軍の軍艦が来たのなら、Jさんは間違いなく潜ってしまわれたことでしょう。
Jさんの生き様には、巡洋艦で沈んだ時が自分の人生の終わり、後はおまけの人生「いつ死んでも悔いなし」という態度が見受けられました。
そのほかJさんはミッドウェー海戦を除く太平洋戦争中のほとんどの海戦の経験者です。Jさんが退艦すると総員戦死となる艦船が相次ぎました。「Jさんと一緒なら戦死しない」という伝説まで生まれたほどだったのです。
九死に一生 その2
太平洋戦争中、Jさんは潜水艦に乗り組まれたこともありました。潜水艦でシンガポールを出て、ケープタウンまで重要物資と情報を届けに行ったそうです。その帰りのインド洋で、イギリスの駆逐艦と遭遇、Jさんの潜水艦は最高深度まで潜ってただ駆逐艦が行き過ぎるのを待つだけでした。しかし、英国艦に見つかり爆雷攻撃を受けました。潜水艦は損傷し、蓄電池の硫酸が船内にこぼれその蒸気が館内に充満し、それを吸った乗員は大きなダメージを受けたのでした。Jさんもこのときの影響で肺の一部が機能せず、走るなど急激な運動はできませんでした。最終的には魚雷発射管から船内のごみや衣類、壊れた部品等を発射し、それを見た英国艦はJさんの潜水艦が沈没したものとして行き過ぎました。助かって無事シンガポールに帰投し、そこで全乗組員が入れ替わりました。そのあくる日その潜水艦は敵艦にやられ、総員戦死だったそうです。まさに九死に一生でした。
九死に一生 その3
また、次のような話もあります。戦艦大和に乗り組んでおられたとき、明日最後の出撃というその日に、退艦者が発表されました。その退艦者名簿にJさんの名前があったのです。
当時、艦長はJさんがほとんどの海戦をすべて経験しているので、殺すのに忍びなく、海軍機関学校の教官として赴任させるために退艦させたのでした。その頃、機関大尉だったJさんは幹部として、出撃したら帰投する燃料のない玉砕の船出であることは、当然知っていました。
Jさんは当然死を覚悟していました。艦長の所へ、怒鳴り込むように、「どうして私を連れて行かないのか」と詰問しに行ったのですが、こんこんと説かれて、その説得に応じたのでした。
もちろん、歴戦の勇士というだけでは、その日の退艦はなかったでしょう。艦長はJさんの人柄を見抜き、教官として、軍人として、次の日本を託す若者はJさん以外にないと考えて退艦させたのだと思われます。艦長の慧眼にも敬服ですが、それを言わしめたJさんの人柄がすごいと思うのです。
豪放磊落 その2
Jさんの戦艦大和時代の話として、次のような事件があります。当時Jさんの位は大尉でした。
同じ大和に乗り組んでいたS主計少佐とJさんは馬が合わず、Jさんは常々S少佐から何かといじめを受けていました。ある時、階級が一つ下のJさんは多くの幹部が居並ぶ士官室でS少佐を投げ飛ばしてしまったのです。もちろん、Jさんがいたたまれぬほどの侮辱を受けたからでした。ところが、S少佐は運悪く背骨を負傷し、再起不能の重傷を負ってしまったのです。当時の軍律厳しい海軍で上官をぶん投げ、あまつさえ重傷を負わせれば、待っているのは軍法会議と、それに続く重営倉ということになったはずでした。
事件後、しばらくして、謹慎しているJさんに艦長から呼び出しがありました。覚悟の上で艦長室へ入ったJさんへの艦長の第一声は、耳をつんざくほどの大きな声だったそうです。「馬鹿ものー!貴様のような粗忽者は聞いたことがない。報告によれば、昨夜、S少佐は貴様の足につまずいて転んだというではないか」
そして、最後にJさんの耳元に顔を寄せて、「昇格は辛抱せい」といわれたというのです。もちろん、Jさんはそれまで、同期生の中では最も早く昇進してきたのでした。
当時の海軍でこのような計らいがあったとは不思議なことですが、艦長も悩みぬいたあげく、優秀なJさんを戦列から外さないようにするためにとった措置だったと思われます。艦長の部下への思いやりやその人柄がうかがわれます。Jさんもそれに値する人柄と実績を積んでおられたに相違ありません。
この事件では、まさにJさんの脚本「九死に一生」を見ることができますし、上官をぶん投げてしまうJさんの中にお父さんから来たと思われる豪放磊落の脚本を見ることができます。
さらにJさんの会社が危機に瀕したことがありました。しかし、Jさんの人脈からこの危機を見事に乗り越えられたこともあったのです。この事態も、危機があっても、簡単には倒れないという「九死に一生」という脚本から出ているものと思います。
人間信頼
Jさんは当地の経済界の要人であったのはもちろんですが、発明協会等の公的組織を通じて、ソニーの井深大さんやトヨタ自動車の豊田英二さん、その他、国を代表するような要人と多くの親交がありました。
Jさんがそのような要人を当地へ迎えられるときにも、その生きざまを見ることができます。
一次会でもJさんと一緒にいますと、実に楽しいのです。ユーモアたっぷりのヒューマニズムあふれる話ばかりなのです。
二次会は気さくなスナックでカラオケです。自らは歌われませんが、どんどん盃を挙げ飲むほどに酔うほどに陽気な話が弾むのです。
例えば、「私は酒もたばこもやらない人で、がんにならなかった人は知らない。全部そうです。○○さんは肺がん、○○さんの弟さんは胃がん、○○さんの奥さんは大腸がん・・・。そりゃそうですわな。酒もたばこもやっている人は、体調が悪ければ、とりあえず酒をやめられるし、たばこもやめられる。両方ともやっていない人はもうやめるものがない。生きるのをやめるしかないでしょ」といった具合です。
そして、再度当地にその要人が来られるときには、百年余の友人のごとくふるまわれるのです。
Jさんが仲良くされるのは、著名人ばかりではありません。ちょっとしたいざこざでやくざに乗り込まれたことがあったそうです。拳銃を前に置き、話をつけに来たと居直るやくざに対し、Jさんはその拳銃をポイと庭に放り投げ、「お前はケンカのプロにケンカを売る気か!」と一喝。そのやくざはJさんの迫力に圧倒されたのでしょうか、一杯やるうちに打ち解け仲良くなってしまったそうです。ここで「ケンカのプロ」というのは、軍人のことを言っています。
Jさんが中心になるいくつかの会がありました。いつもJさんの独演会になるのです。筆者はその独演会を楽しみにして、出席していました。
ユーモアに満ちた、温かい話ばかりなのです。
Jさんが知財部へ
もし、Jさんが若くして知財部へ所属したとするならば、どんな活躍をされるのでしょうか。多分、知財部を超える大活躍をされることになると思われます。
いち早く頭角を現し、会社上層部からの信頼を集めるだけでなく、部下からも慕われることは間違いありません。そして、やがて、知財をてこに会社の進むべき道を進言し、会社の大きな発展に寄与、グループ各社の知財戦略を統括するようになられます。さらに、全国知財組織の中枢においても活躍され、日本の知財戦略を政府に提案するような立場にまでなられるでしょう。その間、知財分野のみならず、日本経済界の主要な人々との人脈を形成、会社の取引量の増大にも貢献し、会社が直面する知財その他の困難な諸問題は、すべてJさんの担当で解決されることになります。部下の起こした重大な失敗により、地位を失うような危機に遭遇しても、社内外からの後ろ盾により失脚を免れることになります。
Jさんの現れるところ、常にカラオケと酒の2次会があり、Jさんを中心に和らいだ雰囲気が充満します。そして、さらなる人脈が形成されていきます。そのわきには美しい奥さんが常に寄り添われます。やがて、社長まで昇進されることになるでしょう。
まとめ
Jさんの生きざまには自他肯定の基本的ポジションと「人のため世のため」という「滅私奉公」、勝海舟と同じ「人間信頼」「九死に一生」の脚本を見ることができます。
ただし、Jさんと勝海舟には全く異なるところが一つあります。勝海舟は奥さんに「一緒の墓ではいやだ」といわれるほどに女癖が悪かったのですが、Jさんは違います。お酒もよく飲まれますし、女性のファンが山ほどいました。しかし、浮いた話は皆無でした。誘ってもらえなくて、泣いている女性は多かっただろうと思います。