知財マンの心理学9 人生脚本
(パテントメディア 2016年5月発行第106号より)
会長 弁理士 恩田博宣
1) 始めに
今回から複数回にわたって、「人生脚本」を取り上げます。人生の行動のパターンや思考パターンを支配する基本的ポジション(パテントメディア103号参照、当所HPでご覧いただけます)のほかに、同じように人の行動やものの考え方を規制する人生脚本があります。
基本的ポジションは生まれてから3歳くらいまでの間に主として、育ての親である母親との関係で形成されます。一方、「人生脚本」は3歳から14歳くらいまでの間に経験する心理的に強い印象を残す出来事によって形成されるといわれています。
そして、人の人生はあたかも自分が描いた脚本通りに展開するかのごとく、無意識のうちに自動的に進行するのです。人生脚本には「~してはいけない」という禁止令といわれるものと、「~せよ」というドライバーといわれるものがあります。
2) 人生脚本にはどんなものが
禁止令といわれるものの例が次の通りです。
- 存在してはいけない
- 所属してはいけない
- 成長してはいけない
- 感じてはいけない
- 自分で判断し行動してはいけない
- 子供であってはいけない
- 感ずるままに感じてはいけない
- 何もしてはいけない
- 成功してはいけない
- 近づいてはいけない
- 重要であってはいけない
- 健康であってはいけない
- 楽しんではいけない
- 幸福になってはいけない
ドライバーといわれるものの例が次の通りです。
- 急げ
- 完璧であれ
- もっともっと努力せよ
- 人を喜ばせよ
- 強くなれ
以上は人生にマイナスの影響を与える「人生脚本」ですが、プラスの影響を与える脚本もあります。
- 九死に一生
- 人間信頼
- 豪放磊落
- 一生健康
- 裕福な生活
- 尊敬を一身に
- 世のため人のため
- 滅私奉公
- 素直に
- 謙虚に
3)どのように形成されるのか (禁止令「感じてはいけない」)
人生脚本は、幼児決断といわれる状況で形成されます。「感ずるように感じてはいけない」という禁止令の場合を見てみましょう。
この禁止令を脚本としている人は、通常ほとんど感情を露わにしません。嬉しいことがあっても、悲しいことがあっても、飛び跳ねたり、泣いたりせず、無表情なのです。
幼児期に、感じたことを素直に表現した際、それを咎められ、そのことを強く意識し決断したのです。強い印象を与える事件ともいえる出来事があったか、何度も繰り返し注意されたようなときに、決断し、強化され脚本化されます。
例えば小学校1年生の男の子が、父親と一緒にピクニックに行き、父親の前で転んでしまい、膝をすりむいてその痛さに耐えられず、わんわん泣いたとします。そのとき父親が「お前は弱虫だなあ。男の子はこんな擦り傷くらいで泣いてはいけないんだよ」と言い聞かせます。男の子は「そうか男はこんなことで泣いてはいけないんだ」と理解します。
父親からはことあるごとに「男は強くあれ」というメッセージが繰り返されます。そして、今度はまた同じような場面、例えば、壁に頭をぶつけて痛くて泣きたいとき、目に涙をいっぱいためて、それでも、ぐっと我慢します。それを見た父親は「えらい! それでこそ男だ。よく我慢した。すごいぞ」等とほめます。男の子は決断します。「男の子は泣いてはいけないのだ」「泣いてはお父さんに愛してもらえなくなるのだ」と。そして、泣かない子、我慢強い子になります。本来、多感な幼児期に泣かずに過ごすことは、不可能なはずです。しかし、泣くとお父さんから愛してもらえない。この子は泣かないために、感ずることを止めるのです。そうすると悲しいときだけではなしに、嬉しいときも感ずるのを止めてしまいます。感情を表現しない子になっていってしまい、一生を無表情で過ごすことになるのです。
4)「感じてはいけない」の脚本の人が知財部員だったなら
もし、このような人が知財部に配属されたらどういうことになるでしょうか。特許訴訟に勝って知財部員皆が喜んでいるのに、憮然とした表情をしているというようなことが起こったとしても、それはあまり問題ではないでしょう。しかし、明細書作成のときには、いささか問題があります。明細書の作成は発明者の発想を2倍にも10倍にも膨らませてあげなければいけません。1を聞いて10を創造することが必要です。そこに求められるのは、技術集積と感性です。頭脳中に技術集積がいくらあったとしても、「感じてはいけない」という禁止令を持った人は、感性の部分が働きません。本来は、自分の技術集積の部分から、感性を働かせて、発明者の発明を肉付けし、別例のアイディアを引き出します。それなのに、感ずることを止めてしまっていることが障害となり、付加すべき新たなアイディアと作用効果を発案するための発想がわき出てこないのではないかと思われます。
ライバル会社の特許権をクリアする構成を考えるとか、拒絶理由通知があったとき、作用効果の違いを明確にするとかの場合も、感ずることを止めた人には難しい面があるように思います。
5)筆者の脚本 ドライバー「急げ」について
筆者は人生脚本を知るセミナーに参加して、「重要であってはいけない」「急げ」「完璧であれ」の脚本を持っていることがわかりました。
筆者のドライバー「急げ」について説明します。どのような幼児決断があったかについては、後述します。
「急げ」が典型的に表れるのは、ゴルフプレーの時です。スロープレーはゴルフ場にとって困ったことで、その対策に悩まされるところです。筆者は通常ゴルフはトップスタートです。アウトのハーフラウンド1時間15分から30分でラウンドします。インに入りますと先にインスタートした組がいますので、2時間~2時間30分かかります。それでも11時か遅くても11時30分には終了です。風呂と食事を済ませて帰っても、午後には十分仕事の時間が取れます。筆者は土日もこのパターンでやっています。それでもショットは慎重に行い、グリーンの上ではラインをきちんと読んでからストロークします。
先日も家内と友人の3人でプレーしたことがありました。7時40分スタート、10時5分には18ホール終了でした。何と2時間25分でラウンドしたことになります。「急げ」の脚本が典型的に表れたケースです。
前の組がスロープレーだったりしますと、もう耐えられません。クラブハウスに電話をかけ、マーシャルカーを呼んで注意をしてもらいます。
先日もお客様とのプレー中、先行するグループのプレーが遅いので、耐え切れずマーシャルカーを出してもらい、注意してもらいました。そうしたら何と前のグループはハーフ1時間45分でラウンドしていたのです。通常、2時間でハーフラウンドできればOKなのですから、決してスロープレーではないばかりか、非常に速いプレーだったのです。筆者は、平身低頭何回もお詫びする羽目になりました。
また、事務所経営上、改善すべき事項がどんどん出てきます。それに対していいアイディアが提案されると、筆者は間髪を入れず、「すぐやれ」と命ずるのです。最近は従業員間で、「会長に言うとすぐやれといわれるので、会長にはもっと具体化してから報告しよう」ということになっているようです。
何か重要なことを決断するときも、素早く行います。自動車の運転もかなりのせっかちです。スポーツタイプの出足のよい車を駆使し、先頭で発進するときは、まずはトップに立って走ります。待つのが嫌で、たびたび通うお客様へは、何年もかけてルートの変更を繰り返し、最短時間ルートを発見し訪問していました。
この「急げ」の脚本が筆者の幼児期にどのようにして、形成されたかはよくわかりません。推定できるのは、昭和20年、筆者は6歳、小学校1年生でした。7月9日、岐阜はB29の大編隊に襲われ、焼夷弾による爆撃を受けました。JR岐阜駅に火の手が上がって、間髪を入れず、我が家に大型の焼夷弾が落ち、瞬く間に火の海となりました。なぜか、家の前にあった防空壕には入らず、数十メートル離れた柿の木畑へ逃げたのです。柿の木畑にも焼夷弾は落ちました。落ちてくるとき、ザーッという音がします。怖いものですから布団をかぶります。落ちると8メートル四方が火の海になります。その中にいたら助かりません。柿の木の枝でたたいて消すのです。隣の田んぼにおちる焼夷弾は突き刺さり不発弾になります。
命をかけて逃げ、いつ直撃を受けるかもしれない。こんな経験の中で、「急いで逃げよ、遅れたら命がない。急げ」がインプットされたのではないかと思うのです。
前述のように、筆者は自分に対して「急げ、急げ」と人生を送っているだけではなしに、周りの人にも「急げ」を強要する傾向があります。いい場合も悪い場合もあります。日限が決まっている仕事をするときに、遅れたことはまずありません。しかし、寄る年波には勝てず、忘れてしまうことがあるので困ります。ただ日限を守るということ以外では、明細書を書くにあたって、「急げ」の脚本が影響したことはなかったように思います。
6)自分で判断し行動してはいけない
最近、指示待ち人間が増加しています。少子化で王子様王女様として育てられた結果、指示待ち人間が育ちやすいのです。幼児の頃、日常生活の中で、うまくいかないことが生じます。例えば、スプーンを使って上手に食べ物をうまく口元へ運べなかったとします。するとお母さんが「だめねえ、お母さんがやってあげます」とスプーンを取り上げ、食べさせてあげます。
幼児の心には「私にはできない。それに引き替えお母さんは何でもできる」との感情が生じます。自己否定他者肯定の基本的ポジションが形成されます。そんなお母さんは、「あなたは勉強だけしっかりしなさい。そのほかのことは全てお母さんがやってあげます」そして、「そんなやり方ではだめでしょう。こうしなさい」とあらゆる行動、「早く起きなさい」から「早く寝なさい」まで、お母さんから指示します。こうして「お母さんのいうようにやっていれば間違いない」と自分で判断し行動するということをしなくなります。何をするにも指示を受けないと行動できない人間になってしまうのです。「自分で判断し自分で行動してはいけない」の脚本が実践されることになるのです。
7)脚本「自分で判断し行動してはいけない」 を持つ知財部員
もし、このような人材が知的財産部に所属していたら、困ったことになります。明細書を作成するとします。先輩が書いたものと同じ技術分野の改良技術を書くときは、先輩の明細書をなぞりながら、改良された構成を付け加えるということで、それほどの困難はないでしょう。しかし、新技術分野のパイオニア発明を担当するということになると、創造力を発揮して、発明者の発想をもとに、別例も考えることで、クレームの範囲をさらに幅広いものにしなければなりません。いいクレームができたとしても、「これでよい」と決断することが難しくなります。上司の指示なしには、決められないことになります。
ライセンス交渉の場に立ち会うことになっても、「それでOKだ」と決断し交渉をまとめ上げるのは非常に難しいでしょう。
8)厳しい脚本の例 マリリン・モンローの禁止令のケース
マリリン・モンローといっても、現代ではそれほど馴染みがないかもしれません。一世を風靡したアメリカの女優です。地下鉄の換気孔の上でスカートをまくれ上がらせるシーンが有名でした。たぶん記憶のどこかにおありだと思います。彼女は1926年生まれですから、現在まで生きていたとすると、90歳になっています。
彼女の人生脚本は呪われたものの一つだといえます。彼女は私生児として生まれました。母親は働く必要があったので、モンローは生後間もなくから、多くの親戚や他人に預けられ、16歳で結婚するまで、10か所以上の家を転々としました。彼女は成長する過程で、育ての親達から、虐待を受けたことはありませんでした。むしろ彼女をあわれに思い、温かく愛情を以て迎えた人が多かったのです。しかし、様々なやむを得ない理由によって、彼女を手放し、次の養育者の元へ送り出さざるを得ないということが繰り返されました。
その間母親と一緒に暮らせるようになった時期もありましたが、母親の精神病発病によって、結局は離別しなければならなくなります。そうして、また、何人かの養育者の間をたらい回しにされ、1年あまり孤児院で過ごしたこともありました。
このように父親を知らずに生まれ、母親以外の人の間を渡り歩き、ようやく求めてやまない母親と暮らせるようになって、やっとつかんだ幸せな時間も、間もなくその母親の病気によって、奪われてしまうことになったのです。そして彼女は、多くの養育者達から、最初は温かく迎えられ、愛されても、最後には様々な理由から、次の養育者に送られてしまうという仕打ちを受けました。
こうして彼女が決断した脚本は、「愛は必ず失われる」「愛は持続しない」「幸福になってはいけない」という脚本ではなかったかと思うのです。その後彼女はこの脚本通りに生き、悲劇的な最後を迎えるのです。
彼女は写真のモデルになったことから、スーパースターへの道を駆け上がります。そして、華やかな女優の絶頂期に、当時ニューヨークヤンキースのスーパースターだったジョー・ディマジオと結婚します。新婚旅行で日本へも来たのですが、そのとき「寝間着は何?」の問いに、「シャネルNO.5よ」と答えたのは有名ですし、筆者にとっても衝撃でした。
しかし、その生活が仕事を離れた静かな落ち着いたものになると、彼女はあたかもその安定を壊そうとするかのように、活動と興奮を求めて映画界で活躍を続けます。朝鮮戦争で戦っている兵士を慰問し熱狂的な歓迎を受け、映画「7年目の浮気」で前述のスカートをなびかせて得意になっている彼女に対して、ディマジオは激怒します。そして、別れが来るのです。
さらに、彼女は当時有名だった劇作家アーサー・ミラーと恋に落ち結婚します。世間から見ると、このカップルはまことに奇妙な組み合わせでした。知識人であるアーサー・ミラーが、知性の感じられないセックスシンボルというイメージのモンローとなぜ結婚に踏み切ったのか。
モンローはまだ不遇であった頃から、あわれな彼女に接した人達を、「何とか助けてやりたい」という気持ちにさせるムードがあったのです。女優として大成するほどの美人ですから、わからない話ではありません。
結婚後、彼女はそれまでにない安息所を彼との生活に見出したように見えました。しかし、「王子と踊り子」の英国ロケで仕事上のトラブルを起こし、ミラーをそのトラブルに巻き込み、睡眠薬中毒に陥ってしまいます。ミラーにさらに迷惑をかけることになってしまったのです。
静かな牧場における生活で、モンローの人生を立て直そうとするミラーを振り切って、モンローは都会の興奮と大衆を求めて、また、映画界に戻ろうとします。愛情を注いだミラーも愛想を尽かします。モンローとイブモンタンとの情事でミラーとの結婚は破綻をきたします。
アーサー・ミラーと離婚したモンローはうつ病と睡眠薬中毒で苦しみます。そして、会社に無断でケネディ大統領の誕生パーティに参加したことで首になってしまいます。その後ほどなく睡眠薬で目を覚ますことなく、みじめな環境の中で、わずか36歳の生涯を閉じたのです。
ディマジオにしても、ミラーにしても、モンローが少し自分の気持ちを抑えて夫婦関係を維持していたならば、落ち着いた、優雅で平和で豊かな、愛に満ちた生活があったに違いないのです。
しかし、モンローの「愛は必ず失われる」「愛は持続しない」「幸福になってはいけない」という幼児期に形成された脚本が、無意識のうちに次から次へと頭をもたげ、どうしようもなく脚本通りに行動してしまうことになったのです。
9)人生脚本の怖さ
前述のマリリン・モンローの人生に見るように、幼児期に形成された人生脚本は、人をしてどうしようもなく、脚本通りの人生を歩ませてしまうのです。それはちょうど覚せい剤の中毒患者が「止めなくてはならない」と分かってはいても、どうしようもなくどんどん深みにはまっていくのと同じです。人生脚本が覚せい剤と違うのは、通常自分が持っている脚本が何かということも、自分がその脚本通りに生きているということも、意識していないということです。知らないまま人生を終わってしまうことがほとんどなのです。従って、モンローのような深刻な脚本を持った人の場合、無意識のうちに悲劇的な人生を過ごしてしまうのですから怖いのです。
もし、自分の脚本がどういうものなのかわかっていれば、脚本を修正しながら有意義な生活を確保することができようというものです。この点については、次号以降に説明します。
逆にプラスの脚本を持っている人はそれが自動的に無意識に常時出てくるのですから、人生は好転しバラ色になろうというものです。
10)プラス脚本の例 勝海舟の脚本 (人間信頼、九死に一生)
勝海舟は下級武士の子として、1823年(文政6年)江戸本所亀沢町で、父勝小吉、母お信の間に生まれます。西郷隆盛との江戸城明け渡しの立て役者として活躍し、無血開城を実現したことで有名な幕末の志士です。勝海舟が、典型的なプラスの脚本を形成した経緯について、簡単に言及したいと思います。
海舟は幼名を麟太郎といいました。父親の小吉は御家人の位にあったのですが、生涯ほとんど無役でわずかな手当てで生計を立てていました。家庭は貧しく日々の生活にも事欠く有様で、ちょっと間違えれば、麟太郎は現代で言う非行少年になってしまっても仕方がないような状態だったのです。
小吉は仕事もなくぶらぶらした生活を送っていたのですが、他人の面倒見がよく、けんかがあれば放っておけないとばかりに仲裁を買って出るタイプだったのです。これが麟太郎に対して、「仲立ちをせよ」とのメッセージとなったと思われます。これは海舟の脚本(ドライバー)になっています。事実、海舟は幕府側に立って攘夷派との交渉を数限りなく行いました。その面倒見の良さは、目を見張るものがあったのです。その最も注目すべき成果が、江戸城無血開城を成し遂げた西郷隆盛との交渉だったといえましょう。
また、小吉は剣術の面でも非常に優れた実力の持ち主でした。一方、母親のお信はしっかりした性格で、夫や麟太郎には、明るく献身的に接し、不満を言うことはありませんでした。風采の上がらない夫でも名目上の家長としてその権威を認め、一家の主としての父親像を保とうとしたのです。当時の武家の女性としての伝統的な生き方であったと思われます。
麟太郎は腕白でした。しかし、父小吉はむしろその腕白を喜んで見守る方でした。「男は強くなければいけない」というメッセージが伝えられたのです。
母親が夫のぐうたらを嘆き、蔑むようなことがあれば、勝海舟は目を見張る業績は残せなかったのかもしれません。例えば、「お父さんはろくでなしだ。」「決してお父さんみたいな人になるんじゃないよ」等と、麟太郎に繰り返し言い聞かせたとします。そうすると麟太郎には「男はみんな甲斐性なしだ」「どうせお前もお父さんみたいなダメ人間になるのだ」といった隠れたメッセージが伝えられます。そして、その繰り返しによって麟太郎には、負の脚本「男は皆ろくでなし」が形成されることすらあり得たのです。プラスの脚本形成に母親が大きな役割を演じたといえます。
また、麟太郎は6歳のとき、学者でもある叔父の男谷秀四郎のところへ教育のために預けられています。これは小さいころから、才能があった麟太郎を教育して伸ばしてやろうとする、積極的な思いやりからだったと思われます。これが、「麟太郎は重要である」とのメッセージとなった可能性があります。
麟太郎が8歳の夏、犬に襲われ急所をひどくかまれたことがありました。小吉は医者を督励して縫合手術を成功させます。熱の下がらない麟太郎を何日も徹夜で看病し続け、毎日、裸で抱いて寝て、完治させました。
小吉は麟太郎に対し身をもって、「お前は大切な存在なのだ。生きなければならないのだ」、「めったなことで死ぬな」等のメッセージをインプットします。このようなたくましい父親の存在により、麟太郎は男性としての自信を持てるようになったと思われます。
さらに、この事件で危うく一命を取り止めた麟太郎はおそらく「おれは九死に一生を得た人間だ。簡単には死ねない人間だ」という脚本を潜在意識に深く刻み込んだものと思われます。
幕末の混乱の中で、海舟は20回も死に直面し、そのたびにこれを乗り切っています。海舟の体には複数個所に傷があったといいます。
TA(Transactional Analysis)的に見たとき、海舟がこの混乱期を生き抜いたのは、単に強運の持ち主というだけでなく、潜在意識に深く刻まれた「簡単には死ねない人間なのだ」という脚本が彼の行動をコントロールした結果だといえます。
また、麟太郎がこのように両親からいつくしまれ、愛されて育ったために自他肯定の基本的ポジションを形成するとともに、「人間信頼」というプラスの脚本を形成したものと思われます。
「人間信頼」を地でいった逸話があります。幕府の海軍奉行になってからのことですが、坂本竜馬が海舟を切る目的でやってきました。そのとき海舟は開国と海軍の必要性を説いて竜馬を弟子にしてしまったのです。また、人を切るために一度も刀を抜かなかったともいわれています。狩りに行って猟銃で撃つときもわざと外して撃ったという話もあります。
このように、国を救うほどの大事業を成し遂げた海舟ですが、プラスの脚本が形成される過程には、両親とのかかわりが大きく作用していることが分かります。子育ての重要性を痛感します。
このように海舟の脚本はほとんどプラスに彩られているのですが、1つだけ現代から見るとマイナスともいえる脚本があります。
海舟の正妻お民は亡くなるとき、「勝のそばには埋めてくれるな」と遺言したといいます。海舟には情を通じた女性が少なくとも数人おり、彼女たちに子供を産ませてもいます。妻のお民にとっては耐え難い仕打ちであったに違いありません。「英雄色を好む」の譬の通りですが、TA的に見ますと、必然的な脚本のなせる業といえます。父小吉は赤貧の生活であったにもかかわらず、生活費を遊興費につぎ込んでしまうような面がありました。武家の女に惚れこんでしまい、こともあろうに妻のお信に「取り持ってくれ」と頼むようなこともあったのです。このような父の行状に接した幼い麟太郎は、じっと耐える母の姿を見て育ち、「女性関係はみだらであってよい。妻以外の女を愛してもよい」という脚本が形成されていったといえます。つくづく脚本の怖さを感じます。
11)もし勝海舟が知財部員だったならば
もし、勝海舟が工学部を卒業して、知的財産部に就職したとしたら、どんな知財部員になったでしょうか。仲裁能力が優れていたところから、知財紛争が起こったときには、「俺に任せよ」としゃしゃり出るでしょう。交渉ごとは得意です。説得力の強さから、「こんなに当社に不利な条件下でよくぞここまで相手方を譲歩させたな」との感想が知財部全体から噴出するほど、うまく解決するでしょう。
「人間信頼」の脚本からは、知財部の多くの社員から慕われる存在になります。若くして係長、課長、そして、部長と出世街道を驀進します。知財部長にとどまらず、会社役員になり、会社発展の戦略をどんどん出し会社業績向上に貢献します。専務、そして社長にまで出世する可能性があります。
しかし、いささか心配なのは、セクハラ事件を起こし、ある日突然失脚ということになりはしないかという点です。
12)本号のまとめ
人は自分がどのように生きるかの脚本を自分で決め、その通り生きる。その自分の脚本がプラスの場合は、その脚本通りに生きることに問題はありません。負の脚本の場合は、マリリン・モンローのケースに見るように、悲劇的な人生になってしまうことがあるので、要注意です。一番いいのは自分の脚本が何かを知ることです。モンローの場合も本人が、自分の脚本が「愛は必ず失われる」「愛は持続しない」「幸福になってはいけない」であることを承知していたならば、平和な生活を守りうる可能性がありました。ジョー・ディマジオまたはアーサー・ミラーとの落ち着いた平安な生活を放棄し、大衆との接点を求めて、映画界へ戻ろうとしたとき、モンロー自身が「あっ! 私の脚本がまた平和な暮らしを壊そうとしている。映画界への復帰は見合わせよう」というように行動できる可能性があったのです。
実際にはそれほど簡単ではありません。筆者は「急げ」の脚本のほかに「重要であってはいけない」という脚本を持っています。事務所の慰安旅行などで集合写真を撮ります。筆者は事務所のトップであるにもかかわらず、なぜか後ろの隅の方に立ちます。脚本が作用しています。筆者はその脚本を分かっていますので、意識して、最前列の真ん中に入ることができます。しかし、新しい未経験の場面になりますと、気付かず、自動的に脚本が行動にでます。著者は75歳でエイジシュートを達成しました。そのとき多くの知人友人を招待して、お祝いのコンペを行いました。何人かに幹事をお願いしましたが、「忙しい人たちばかりなので」と企画はすべて自分でやっていました。ある友人に「それではコンペは盛り上がらないよ」といわれて、はっと気づきました。知らぬ間に、「重要であってはいけない」をやっていたのです。
すなわち、人生脚本というのは潜在意識に定着していますので、今から脚本が出そうだということが過去の経験から予見できるときは、脚本の発現を抑制できるのですが、無意識の初体験の状況では、自動的に出てしまうのです。脚本を知って修正というのも難しいことなのです。さて、読者の皆さんは一体どんな脚本をお持ちなのでしょうか。次回以降、脚本の具体的事例を紹介していこうと思います。
13)参考文献
杉田峰康著 人生ドラマの自己分析(交流分析の実際)
発行所 創元社
特にマリリン・モンローと勝海舟の脚本については、上記著作よりダイジェストさせていただきました。
以上