【企業知財部から弁理士業界へ】私の二毛作人生模様(後編)
副所長 弁理士 福井宏司
苦い思い出の弁理士試験
ところがいざ弁理士試験の勉強を始めてみると、大変な世界であることがわかりました。合格率が2パーセント前後、弁理士試験の受験生には10年選手が多い、弁理士試験合格のために仕事を辞めて浪人生活をしている人が多い、またそうした人々から多くの合格者が出ている、といった世界でした。合格するためには、受験期間を2年間とし、この間に3000時間の勉強時間が必要と言われていました。しかし、勉強をやり始めてから改めて悟ったことは、一般サラリーマンが家で勉強するのは大変難しいことで、1週間に3~4時間の勉強でも普通はできません。ですから、とてもそんなに多くの勉強時間を取ることは無理だと思いました。
そこで私は受験勉強時間をいかにして減らすかを考えました。
多肢選択の一次試験は、出題者の意図を読み取って記憶すべきポイントを条文上で押さえておく。そして、論文回答式の二次試験の必須5科目は、法令集を参照できることになっていることから、法令集を見ながら関係条文を洗い出すことのできる知識と、洗い出した関係条文を見ながら論文構成を作成する知識とを身に着けることにしました。これにより暗記に要する時間をできるだけ少なくするように心がけました。
こうしたやり方で、勉強を始めた1年目に幸いにも多肢選択試験に合格しました。また、二次試験の必須5科目についても全て合格点を超えていることを確認しました。
しかし、二次試験の選択3科目は全く手付かずの状態でしたので、全て不合格点でした。
2年目は、選択科目を中心に勉強しました。ところが、油断があったのでしょうか。一次試験不合格という思いもよらぬ結果となってしまいました。
3年目は家庭に不幸な出来事があり、弁理士受験勉強についてはほぼ全期間ブランクとなり受験をあきらめました。
4年目は、受験日の直前に1日あれば1科目全範囲を学習できるように、つまり最終的には一夜漬けができるように、科目毎の資料集作成や選択科目についてのノート整理を行いました。これは勉強の目標が明確になるとともに、知識の整理吸収にも大いに役立ちました。こうして過ごしていた2月中頃だったと思いますが、K初代特許部長がいよいよ退職されるという時期が訪れ、M2代目特許部長が誕生する人事異動が行われました。この人事異動の際に、私は、特許とは全く無関係の滋賀工場の電子技術センターに転勤を命じられました。当時の弁理士試験は5月に一次試験(多枝選択試験)があり、7月に二次試験(論文試験と選択科目)があり、10月に三次試験(面接試験)が行われていました。このため、弁理士受験勉強の4年目は、後半が完全にブランクになってしまいました。
電子技術センターは、ダイキンの将来を考えた、電子技術応用分野の新規事業を生み出すための研究開発部門でした。メンバーは若手が多く、電子技術に素人の私が管理職として駆り出されました。私は、電子技術センターに移ってから、実質的に電子技術センターの指揮を執っていたKI副所長のサポートに追われる日々でした。土曜日や、日曜日には担当役員のI専務を交えた打ち合わせがよく行われ、特許とは完全に無縁の生活環境となりました。このため、4年目の後半は一次試験直前まで試験勉強一切なし、特許法に触れることも一切なしの日々を過ごしました。
私は、ここ一番の試験運は元来あまり良くないようです、大学受験のとき一浪したのですが、勝負年の2年目の年明けに風邪をひき、それが原因で蓄膿症を患い、そうこうしているうちに中耳炎に罹り、耳垂れが出てくるようになりました。このため、耳が痛い上に悪い方の耳を下向けにして寝ていなければならないと医者から言われ、受験勉強どころではなく、3月初めの国立大学一期校の試験を受験できるかどうかさえも危ぶまれる状態でした。そのため、浪人した年の大学受験は、何としても浪人生活を打ち切るため、絶対合格できる学校に切り替え、本来の志望校の受験を諦めたことが思い出されました。
こんな状態の中、5月の弁理士一次試験を受けるかどうか迷っていたのですが、今年が最後になると判断して、一次試験前の2日間を勉強に当てました。時間の限られた中で取った策は、過去問題を読み解くことと、その際に一次試験用にメモを書き込んだ法令集に目を通すという勉強方法を取りました。こうして一次試験を受験したのですが、問題を読んでいる途中で出題の意図を全部読み解くことができ、全問正解の自信が湧いてくるほどの楽勝でした。この時は神が下りてきたような気がしました。
一次試験合格の通知を受けた後も勉強できる環境ではなかったので、二次の論文試験を受験するかどうかもまた悩みました。しかし、これまでの勉強を無にしないように、とにかく受験だけはやろうと決めました。当時の二次試験は選択科目を入れると8科目あり、試験期間が5日間にわたりました。そこで、試験期間中を含めて1日1科目の一夜漬け勉強ができるように、試験開始日の3日前から勉強をスタートするという日程計画を立てました。幸い、電子技術センターへの転勤までの勉強で、一応資料集の整理及びノート整理を終えていましたので、全体を網羅する一夜漬け勉強をすることができました。そのお陰で、試験前にかなり長期のブランクがあったにも拘わらず自信をもって受験でき、合格することができました。
後日、大学の同窓会の講演会で松下電器産業4代目社長を務められた谷井昭雄様から、背後霊のお話しをお伺いする機会がありました。商いの神様といわれた松下幸之助さんは沢山の背後霊に守られていたそうです。このお話を聞いたとき私にも背後霊が付いていて助けられたのかと感じました。こうして弁理士試験に合格できたからこそ、現在の二毛作目の人生があるのですが、当時の私は弁理士業に全く関心がありませんでした。
特許事務所からのお誘いを断り、ダイキンのサラリーマン生活を継続
その当時、弁理士試験を受けている人の多くは、弁理士資格を取得して特許事務所を設立しようと夢見ていました。ですから、試験に合格した人は、先ずどこかの特許事務所に入り、独立前の修行に励む人が多かったように思います。また、試験に合格した人は、どこかの事務所から誘われるのが当たり前のようにもなっていました。現実に、私も、滋賀県草津市の田舎町に住んでいましたが、大阪の複数の事務所からお誘いを受けました。しかし、私は、反骨精神で弁理士試験を受けたようなものですから、特許事務所に入るという気持が全くありませんでした。普通のサラリーマンと同様に、学卒で入社したダイキンに骨を埋める気でいました。ですから、特許事務所様からのお誘いはすべて断りました。
同期の弁理士試験合格者は日本全体で50~60名、このうち関西側は10名程度といわれていましたが、試験合格時、企業にいたのは関西では私だけでした。日本全体でみても同期の弁理士で企業に勤めていたという人には出会ったことがありません。また、私の知っている範囲では、私を除く同期の弁理士全員が特許事務所のオーナーになっておられます。
弁理士試験に合格した私は、電子技術センターで働くより特許部で働くほうが会社に貢献できると考え、特許部への復帰を上司のKI副所長に願い出ました。この願いは電子技術センターの事情もあり、すぐには聞き入れられず、3年間経過したときに復帰が実現しました。そして、私は前もって知っていたわけではなかったのですが、数か月後に当時の2代目特許部長のM様が役職定年になられ、私が3代目の特許部長に昇進しました。
特許部長への昇進は、一定の目的に向かって前進したという意義を感じていますが、第二の人生へのターニングポイントという意味は全くなかったと理解しています。
特許部の役割を模索し、知的所有権部へ名称変更
会社の発展に資する特許部長として何をすればよいかを考えるために、他社特許部長との交流を深めようと考え、企業研究会の特許戦略交流会議(現在の知的財産戦略会議)というセミナーに参加しました。ここで毎月約40社の特許部長と議論を交わし大いなる刺激を受けました。また、懇親会に出席することより、多くの他社特許部長との交流を深めさせていただきました。このセミナーを通じ、人脈を拡げることの大切さを学びました。大学4年生の夏休み、研修アルバイトに数人の仲間で応募し、M自動車の新工場建設現場に約1月間行ったことがありました。この研修アルバイトは、大学の先輩方が社長をはじめ多くの要職に携わっておられる会社にお世話になったものでした。この会社の世話役の部長さんが「袖振り合うも他生の縁」と言って、研修生である私たちを大切に世話して下さったことが蘇ってきました。
これを起点として、私は、その後自主的に又は勧誘されて、いろいろな社外団体活動に参加するようになりました。具体的には、日本知的財産協会(特許管理委員会、企画委員会副委員長、常務理事、副理事長、監査役)、日本ライセンス協会(関西研修委員長、理事、副会長)、日本商標協会(常務理事)、関西文献センター(理事)、大阪府特許情報センター設立委員会(委員長)などです。また、プライベートでも、KCS会(当初は企業の知的財産部に所属する神戸大学卒業生を中心として発足した会、現在は特許事務所の人の割合が多くなっている)、KIPA(関西系企業の特許部長を中心とした懇親会、現在NIPAとして継続されている)、関西知的財産セミナー(関西系企業に勤務していた元JIPA役員の会)などの設立のために、発起人や結成メンバーとして活動しました。また、その他にも幾つかのプライベートな会(例えば、キヤノン株式会社専務取締役の丸島様を中心に集まった会のようなもの)にも所属しました。
こうしたいろいろな会での活動を通じて得た知見を基に、特許部の改革を重ねました。化学事業部の特許管理業務の特許部への統合、全社の技術契約業務の特許部への統合、技術契約グループの創設、特許情報の活用方法の研究、営業秘密情報の管理強化、特許出願管理システムの導入、事務作業機械化への取り組みなどを行いました。こうした実態に合わせ、特許部の名称を「知的」の文字を有する部門名称に変更しました。この名称変更は世間からみるとかなり早い時期でした。知的所有権部にするか知的財産部にするかの問題がありましたが、当時はまだ知的財産より知的所有権のほうが専門用語として確立していたため、特許部担当役員の判断で知的所有権部となりました。因みに、日本で最初に「知的」の語を部門名に使用したのは日立製作所でしたが、日立製作所から知的所有権部という名称が発表された直後でありました。今から思えば知的財産部と命名すべきであったと思われますが、当時としては止むを得ないことでした。
このころの私は、将来弁理士業界に入ることなど全く念頭にありませんでした。当時、祖父が船場で起業した会社を兄が継承していましたので、サラリーマンを辞めるときはその会社に入れてもらおうかと安易に考えていました。
また、初代知的所有権部長として懸命に働いていた私は、役職定年のことなど全く気に留めていませんでした。ところが、知的所有権部への名称変更に成功し、更なる発展を期して法務部門の完全統合を模索していた頃、知的所有権部の担当役員が交代しました。それまではF副社長でした。F副社長は、ダイキンのみならず日本における冷凍空調技術の草分け的存在であり、入社直後の技術部長であった方でした。そして、後任の担当役員は、私が入社した時の直属の上司であったY取締役でした。Y取締役は、当時の機械技術研究所長をされていたので、特許についての理解もあり、非常に良い関係ができていました。しかし残念なことに、私の役職定年直前にがんで亡くなられました。このため、私が役職定年を迎える間際に、担当役員が特許との関わりの少ない方に交代されました。
この新任の担当役員との意思疎通がまだ図られていない状況の中、役職定年の通告を受けました。通告は、役職定年日の1週間前の電話1本だけでした。初代のK特許部長は理事として役職定年をパスされ、63歳まで残っておられました。2代目M特許部長は、前述のように役職定年を迎えられました。私はどうかと考えたとき、その実績からすると役職定年をパスするのかなと思っていましたが、その期待に反する結果となりました。役職定年後のことは全く何も考えていない状況でした。当時はJIPA監査役でしたので、取り敢えず会社に残りJIPAの監査役を継続することにしました。
こうしてその後について思案しているときに、日本特許協会(現 知的財産協会)の活動を通じて親しくお付き合いしていただいていたKO様より、東京の特許事務所を紹介されました。その特許事務所は、千代田区丸の内に事務所を構える品格のある特許事務所でした。東京で一度働きたいという気があったので、大変興味を持ちました。
たまたま、その話を受けたときに、経理部長をしていた私より少し若いT氏に誘われて、一杯飲みにいこうということになりました。T部長にこの話をすると、大変うらやましがられました。「福井さん、弁理士に定年はないから人生二毛作ですね。頑張ってください。私ら文科系は会社を定年になったら何もないですよ」と励まされました。T氏は、私が本社に来た時に、互いの所属部署が隣同士であったことから、直ぐに親しくお付き合いしていただいた方です。また、T部長は、私が草津市の滋賀製作所に転勤したときには、管理職向け社宅街で隣付き合いをしていた間柄でした。しかし、このT部長とは、コンペでゴルフを一緒にやったり、会社の何かの行事で一緒に飲んだりということは時々ありましたが、それまでの長いお付き合いの中でわざわざ二人だけで飲みにいくことはありませんでした。T部長は頭の切れる優秀な方で、後にダイキンの役員になられました。
そんなT部長から掛けられた激励に勇気づけられました。特に二毛作という言葉に新鮮味と格好良さを覚え、刺激されたのは確かで、弁理士業界へ歩みだす強い動機付けとなりました。このとき、二毛作というからには一毛作目と同程度の期間働かないとそれに値しないという気にもなっていました。それまでは弁理士業界に入ることに何かしら抵抗を感じていましたが、T氏と飲んでいるうちに、やっぱり弁理士業界に入るのが良いのかなという気になってくるとともに、長期間勤務への期待も膨らんできたように思います。
このようにKO様から特許事務所ご紹介を受けたときに、T部長から激励の言葉をいただいたことが、二毛作人生への最終的かつ決定的なターニングポイントになりました。
おわりに
私の二毛作人生は、天命に逆らわずに懸命に努力した結果であります。一毛作目のサラリーマン時代の人生は、物心両面で上昇気流に乗ってそれなりに充実した人生を送ることができました。二毛作目の人生は、はじめこそ日々革新の旗を掲げ、新しいことに挑戦する気概をもって仕事に励んでいましたが、いつしか知力、体力の衰えを知るところとなりました。
私は、関西に住んでいます。時々京都の庭園巡りをすることにより心を癒しております。石庭で有名な京都龍安寺には、知足の蹲踞(つくばい)といわれる手水鉢があります。ご存じの方も多いと思いますが、この蹲踞は、真ん中に水を溜めるための四角い穴があり、これを囲むように「五・隹・疋・矢」の4文字が刻まれています。中央の四角い穴が、4つの漢字の「へん」や「つくり」の「口」として共有され、吾唯知足と読めるようになっています。
吾唯知足には『われ、ただ足る』という意味が込められており、その意味合いから15個ある石庭の石が「どこから見ても一度に14個しか見ることができない」ことを「不満に思わず満足する心を持ちなさい」という戒めの意味が込められていると言われています。もう少し分かり易い解説では、「自分をしっかり見つめ、足りないものと向き合いながら、今ある自分に感謝しましょう。」という禅の教えを体現したものと言われています。
私も、この教訓にならい二毛作目の残りの人生を大切に生きていこうと思っています。