限定公開進歩性判断についての最高裁判決(ヒト結膜肥満細胞安定化剤事件)
(パテントメディア2021年9月発行第122号掲載)
弁理士 中村美樹
1.はじめに
発明の進歩性の判断において、化学・バイオの分野では特に、発明の「予測できない顕著な効果」の有無が重要な検討事項となる場合がある。先般、最高裁判所が、「予測できない顕著な効果」の判断手法を初めて示したので、その内容を紹介する。本件の主な論点は、発明の有利な効果の比較対象(論点1)、および進歩性判断における有利な効果の位置づけ(独立要件説か二次的考慮説か?:論点2)であった。
2.概要
本件特許は、アレルギー性眼疾患を有する患者に処方される点眼薬「パタノール点眼薬」に関する特許である。
原告(無効審判請求人)※ | 個人 |
被告(特許権者)※ | アルコン リサーチ リミテッド 協和キリン株式会社 |
特許 | 特許第3068858号 優先日:1995年6月6日 出願日:1996年5月3日 |
発明の名称 | アレルギー性眼疾患を処置するためのドキセピン誘導体を含有する局所的眼科用処方物 |
※差戻審判決(知財高裁)の被告・原告
3.経緯
2011年2月3日に無効審判が請求されて以下に示した経緯を経た後、特許有効との第3次審決が維持されて特許が維持された。なお、本件特許の存続期間は、2021年5月3日で満了した。
1 | 無効審判 | 第1次審決(特許無効) 進歩性なし |
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知財高裁 | 第1次審決取消決定 (2012/07/11) |
第1次審決後の訂正審判請求に伴い取消(旧法) | |
2 | 無効審判 | 第2次審決(特許有効) 進歩性あり |
動機付けなし |
知財高裁 | 二次判決(前訴判決) 第2次審決取消(2014/07/30) 進歩性なし (平成25年(行ケ)第10058号) |
相違点は容易想到 →確定 |
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3 | 無効審判 | 第3次審決(特許有効) 進歩性あり |
相違点は容易想到だが、予測できない顕著な効果あり |
知財高裁 | 三次判決(差戻前判決) 第3次審決取消(2017/11/21) 進歩性なし (平成29年(行ケ)第10003号) |
予測できない顕著な効果なし | |
最高裁 | 破棄差戻し(2019/08/27) (平成30年(行ヒ)第69号) |
予測できない顕著な効果について審理不十分 | |
知財高裁 | 最終判決(差戻審判決) 第3次審決維持(2020/06/17) 進歩性あり (令和元年(行ケ)第10118号) |
予測できない顕著な効果あり →確定 |
4.本件発明
(1)請求項の記載
本件発明(請求項1に係る発明)は、以下のとおりであって、「ヒト結膜肥満細胞安定化」を用途とした用途発明である。下線部分は、訂正により追加された要件である。
【請求項1】
ヒトにおけるアレルギー性眼疾患を処置するための局所投与可能な、点眼剤として調製された眼科用ヒト結膜肥満細胞安定化剤であって、治療的有効量の11-(3-ジメチルアミノプロピリデン)-6,11-ジヒドロジベンズ[b,e]オキセピン-2-酢酸またはその薬学的に受容可能な塩を含有する、ヒト結膜肥満細胞安定化剤。
(注)「11-(3-ジメチルアミノプロピリデン)-6,11-ジヒドロジベンズ[b,e]オキセピン-2-酢酸」を、以下において「化合物A」と称する。
(2)アレルギー症状の作用機序および本件発明の効果
アレルギー症状の薬剤の作用機序としては、拮抗作用と遊離抑制作用とが存在する。本件発明は、上述したように、遊離抑制作用(ヒト肥満細胞安定化)の用途限定を有する。一方、本件発明が関連する対象製品(パタノール点眼薬)は、抗ヒスタミン作用と遊離抑制作用との両方の作用機序を有する。
薬剤の作用機序 | 拮抗作用 (例:抗ヒスタミン作用) |
遊離抑制作用 |
肥満細胞等から放出されたヒスタミンがヒスタミンのH1受容体に結合することを阻害する。 | ヒスタミン等の伝達物質(ケミカルメディエーター)が肥満細胞から放出されることを抑制する。 | |
本件発明 | ヒト結膜肥満細胞安定化 | |
対象製品 | 有 | 有 |
本件発明の効果は、「ヒト結膜肥満細胞からのヒスタミン放出阻害率は、30μM~2000μMの間で濃度依存的に上昇し、最大値92.6%となっており、この濃度の間では、クロモリンナトリウムやネドクロミルナトリウム(注:公知の抗アレルギー薬)と異なり、阻害率が最大値に達した用量(濃度)より高用量(濃度)にすると、阻害率がかえって低下するという現象が生じていない」というものである。すなわち、本件発明は、最大値のヒスタミン放出阻害率を奏する濃度の範囲が非常に広いという効果を有する。
5.本件発明と引例との比較、および技術常識
本件発明と甲1引例とを比較すると、含まれる化合物(化合物A)は同一である。一方、両者は、本件発明が「ヒトにおける」との要件を有する点(相違点1)、および「ヒト結膜肥満細胞安定化剤」との要件を有する点(相違点2)で主として相違する。以下に、本件発明と、甲1引例および甲4引例との比較を示す。
本件発明 | 甲1引例(主引例) 非特許文献 |
甲4引例(副引例) 特開昭63-10784号公報 |
化合物A (公知化合物) |
KW-4679 化合物Aのシス異性体の塩酸塩 |
化合物Aのシス・トランス異性体 |
ヒトの結膜肥満細胞 | モルモットの結膜肥満細胞 | ラットの皮膚肥満細胞 |
結膜肥満細胞安定化剤 (遊離抑制作用) |
抗ヒスタミン作用 (拮抗作用) |
PCA抑制作用 (ヒスタミン等の遊離抑制作用に基づくと考えられる) |
本件化合物がヒト結膜細胞からのヒスタミン遊離抑制作用を有するか、同作用を有する場合にどの程度の効果を有するのかについての記載はない。 |
本件特許の優先日当時の技術常識は、以下の通りであった。
- 抗アレルギー薬は、肥満細胞から放出されたヒスタミンなどのケミカルメディエータに対する拮抗作用を有する薬剤と、肥満細胞からのケミカルメディエータの遊離抑制作用を有する薬剤との二つに大別される。
- ヒトのアレルギー性眼疾患の研究開発において、ラット・モルモット結膜炎モデルが使用されていた。
- 肥満細胞には不均一性がある(他の動物種の他の組織における実験結果を必ずしも予測できない)。
- 本件化合物とは構造の異なる他の化合物が、ヒトにおいてヒスタミン遊離抑制作用を有することが知られていた。
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